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新宮市から車で1時間の山奥に、廃校が眠っている。過疎による児童減少のため、平成5年廃校となった、某小学校である。(ただし、最後の卒業式が行われたのは昭和51年)

メンテナンスされなくなって、もう10年以上経つ。そのわりに、すこぶる保存状態の良い点が、この廃校の特長だ。

と、木造建築にとって良いとこまったく無しのわりに、実に不思議。

さすがに最近、講堂が倒壊したようだが、校舎は、屋根や床の抜けもなく、窓ガラスも95%が残っている(数えた)。往時の雰囲気を満喫するに充分な保存状態だろう。

日本の観光地・名跡の中でも、特にお気に入りの場所だ。

近くを流れる川は澄み、ほのかに甘いミネラル味がする。米を炊けば、忘れられない味になる。うまいよ。夏は水泳、秋は紅葉、冬はスノーハイクと、四季を通じてアウトドアでき、にも関わらず人は少ない。国内きっての穴場と言っていい。


校舎は、小高い丘の上にある。杉林の影だ。最寄りの車道からは、視界に入らない。急な石段の小径を2分ほど登り、校庭に茂るススキの藪を50メートル漕ぐと、はじめて着く。

この目立たなさが、廃校をオーバーユースから守り、今日まで生き長らえさせたのではと思う。

ただ、いずれ朽ちるのは時間の問題な訳で、私がおっさんになる頃には、土に還っているだろう。生涯で、あと何回来れる事か。

多く人が入ると、比例して建物の死期を早めるため、具体的な位置や、学校名を伏せさせて頂きます(検索エンジン対策)。ご不便をおかけ致します。

廃校をお探しの方へ: ベルマークを牛耳っている団体が、「へき地学校名簿」という書籍を刊行しており、これには、全国の僻地にある学校が列挙されております。これの、バックナンバーと最新刊の差分(相違点)を列挙してみますと、廃校の跡地を特定するのに有用かと存じます。 他に、全国へき地教育研究連盟(略称は、「全へき連」)の刊行物等も参考になります。 これらを利用し、廃校だけでなく、僻地の(運営中の)学校を訪ねるのも楽しゅうございます。

廃校への情熱を燃やしたい方へ: 南方新社刊・廃校に暮らす―森の中のスローライフ等が有用です。


校舎内部。平屋建て、約20メートルの直線の廊下。片手に教室、視聴覚室、図書室、職員室、教具室、トイレが並んでいる。床が抜けないよう、また、抜けても逃げ出せるよう、慎重に歩を進める。「ろうかをはしってはいけません!」という鉄則は、廃校になっても健在だ。

画像中には、「右側を歩きましょう」という看板も出るが、これは眉唾だ。建物はふつう、外側の骨格に、より頑丈な柱を使うので、常に、校舎の外壁寄りを歩いたほうが安全なはずである。

(動画が再生されない場合、直接ダウンロードしてご覧下さい。Windows Media 9 形式/4.50MB)

図書室の蔵書。とても廃屋の一部とは思えない保存状態の良さである。

大造じいさんとガン」が懐かしい。私の母校でも昔、読書感想文の宿題で出た。読むのが面倒で、題名だけ見て「不治の病と闘う医療ドラマに違いない」と思い込んで適当に感想文をでっちあげ、先生にぶん殴られた児童は、この学校にも居ただろうか。

職員室の壁に、黒板に手書きの行事予定表。

「最後の月」の予定が、消えずに残っている。今日と同じ三月だ。何を意図して耳の日を特記したか謎だが、この月、マスコミの取材を多く受けている事が分かる。

自治体の出した沿革史を読むと、この学校が、最後の在校生を送り出した昭和50年代、近隣地区に10あった他の小学校でも、統廃合が相次いだことが判る。

原因である児童数の減少は、戦後の日本経済を支えた産業(林業・木炭等)の衰退と同期しているので、きっとドラマチックで、取材し甲斐のある題材だったに違いない。

閉校記念式、卒業式予行演習、最後に卒業式。以後黒板は空欄である。

もういくら待っても、次の予定が書き込まれることは無い。

校庭の桜。つぼみが一生懸命、色を蓄えている所だ。あまり陽当たりに恵まれないので、開花は新宮より遅いだろう。

「校庭の子供たちの歓声、きっとこの桜も聴いていたのかな」と思いを馳せたいのは山々だが、幹の太さ的に、最後の卒業式(約30年前)より、明らかに樹齢は若い。

周りは杉ばかりの山奥。肩身の狭さに耐え成木まで育ち、やっとひと花咲かせたと思ったら、そこは既にゴーストタウン。桜くん悲惨すぎである。

学校から子供が去り、運動会や入学式といった年中行事もなくなってしまった廃校。入れ替わりにやってきた桜の木が、年一度ひっそり咲く。ささやかな年中行事だ。時が止まったような廃校に、ゆっくり時が刻まれる。

もう新年度である。

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